令和3年6月24日(木)より国際医療福祉大学グラウンド横に新たに設置された回遊路が開放されました。この回遊路が開放されたことにより小峯御鐘ノ台大掘切から三の丸外郭新堀土塁、清閑亭までの散策が便利になりました。

 清閑亭が立地する丘陵地は箱根外輪山から続く天神山丘陵と呼ばれる丘陵地です。この丘陵地に新堀と呼ばれる小田原城の三の丸の堀がめぐらされており、天正15年(1590)ごろ、北条氏と豊臣秀吉の関係が悪くなるまでは小田原城の三の丸が外郭として機能しました。 
 現在はそのほとんどが住宅地になってしまったものの、その痕跡が各所で見られ、三の丸外郭新堀土塁が史跡公園として開放されています。

 近代では明治34年(1901)に小田原城が御用邸になったのがきっかけで温暖な気候と海と山といった自然に恵まれた小田原が保養地として注目され、政財界や軍人の要人たちが別荘・別邸を小田原に求めました。

 清閑亭もそのひとつで明治39年(1906)に黒田長成侯爵が土地を取得し、明治末に竣工しました。眺めの良い天神山丘陵には閑院宮家、山下亀三郎(山下汽船)、瓜生外吉(海軍大将)、北原白秋らが別荘・別邸をかまえました

新堀の回遊路

 散策路には街灯も設置されてますので24時間利用可能。
散策路としても便利ですが、ご近所の方にとっても便利な道路として使われるでしょう。

新堀の説明版

 この回遊路には新堀の説明板も新たに設置されました。
それでは小峯御鐘ノ台大堀切を起点に天神山丘陵、新堀を散策してみましょう。

小峯御鐘ノ台大掘切東堀

 この大きな空堀は戦国時代に北条氏が造った堀です。その規模は堀幅が20~30m、深さが12メートル以上を誇る、戦国時代の空堀として国内では最大規模の空堀となります。現在では表土に覆われているため実際の堀はもっと深く、山中城で見られる障子堀であったことも一部確認されています。

三の丸外郭新堀土塁から石垣山一夜城をのぞむ 左手前の山が石垣山一夜城、右手前の山が細川忠興陣場跡(富士山砦)

 小峯御鐘ノ台大堀切の堀底を歩いて行くとその終点から公道を挟んだ先に史跡公園として整備された三の丸外郭新堀土塁があります。天神山丘陵に沿ってめぐらされた堀「新堀」の土塁が一部残されています。眺めがとても良く箱根方面を望むと左手前の山が石垣山一夜城、右手前の山が細川忠興陣場跡(富士山砦)が望め、戦国時代に思いを馳せることも事もできます。また、箱根から相模湾まで一望できる絶景にも恵まれています。

 明治時代では閑院宮邸として使われました。戦後MRAアジアセンターとして使われ、平成24年に小田原市が土地を取得し、三の丸外郭新堀土塁として公開されています。利用時間は10時~15時までとなります。

閑院宮邸ロータリーの跡

 三の丸外郭新堀土塁の敷地を下って路上に出ると道路がロータリー状に丸く一周しています。これは閑院宮邸で使われていた車寄せのためのロータリーの跡なのです。三の丸外郭新堀土塁はとても広い史跡公園ですが、閑院宮邸の敷地はまだまだ広くほんの一部だったのです。

土塁の痕跡(右)

 閑静な住宅地の中を進むと小田原短期大学の手前で小規模な土塁が残っていました。三の丸外郭新堀土塁から続く道も新堀の土塁の上に造られた道路で、この画像右側は堀ということになります。

アンマ池

 この土塁脇から小田原短大の池が見えますが、この池はアンマ池と呼ばれていた池で枯れたことがないそうです。おそらく新堀の範囲にあたりますので、新堀が埋められたあと、埋められた新堀が水脈として機能しているのかもしれませんね。

小田原城の堀に架る橋の跡(画像中央右道路脇)

 さらに小田原短大の手前右道路脇には丸みを帯びたコンクリートがみられます。これは橋の欄干の痕跡です。実はこの場所にはかつて小田原城の堀が通っており、この場所に橋がかけられていたそうです。古い方にお話を伺うと国道一号線、南町方面からの抜け道としてこの堀が使われていたそうです。

左の丘陵地先端が八幡山東郭史跡公園 かつては丘陵地が小田原城天守閣と地続きで繋がっていた。

 小田原短大の前を通り過ぎて分かれ道に差し掛かったところで右に進みます。そうすると小田原城天守閣が右手に見えてきました。この画像左手の丘陵地には八幡山古郭東曲輪という史跡公園があります。この公園と天守閣の間にはJR東海道線が通っていますが、かつては切通し状にはなっておらず、自然地形のまま繋がっていました。

 この丘陵地は天神山丘陵と同じく箱根外輪山より続く丘陵地です。小峯御鐘ノ台大堀切の北端付近で箱根からの丘陵地が南に天神山丘陵、中央に八幡山丘陵、北に谷津丘陵と3つに分かれ、中央に位置する八幡山丘陵の先端に小田原城天守閣が造られています。つまり天神山丘陵と谷津丘陵が中央の八幡山丘陵を守る城壁の役割を果たしているのです。この地に城をかまえた北条氏、あるいは大森氏はいい場所を選んで小田原城を築いたのですね。

分かれ道、順路は右手の住宅地

 小田原城天守閣を望み、右手に進むと左手に階段と右手の住宅地に入る分かれ道が見えました。階段は降らず右手の住宅地の方へ進みます。

 住宅地を通り、その突き当りの階段を降り、左に曲がりましょう。このあたりは細い道がいくつかあり、わかりにくいので注意してください。

回遊路へ向かう道

 小さな階段を下りて左に進むと国際医療福祉大学のグラウンドが見えてきました。グラウンド脇のオレンジ色の道が今回増設された回遊路です。

新設の回遊路

 回遊路を進みましょう。もともと城内高校が置かれた場所ですが、国際医療福祉大学が土地取得後、小田原市がグラウンド脇に延長約80mの回遊路を整備しました。

天神山の旧町名保存碑

 回遊路を降りて国際医療福祉大学に沿って歩くと天神山と刻まれた石柱がありました。この石柱は旧町名保存碑というもの。小田原の古い町名100カ所が選定され、現在80カ所以上の町名碑が造られています。
この石柱には天神山のいわれが刻まれており、麓にある山角天神社に由来すると刻まれています。

山角天神社

 こちらが麓の山角天神社です。三代北条氏康が奉納した怒り天神画像やこの近くに別邸を構えた瓜生外吉の像もあります。また、童謡とうりゃんせの発祥の地ともいわれます。
今回は天神社まで降らず、清閑亭を目指しましょう。

清閑亭周辺の縄文時代の遺跡の説明版

 国際医療福祉大学の前を通った先、清閑亭の手前に縄文時代の遺跡の説明板がありました。
清閑亭は天神山丘陵の先端部に位置しており、こうした眺めの良い立地では古代からの遺跡が多いそうです。
縄文~弥生~古墳~そして中世戦国時代と近現代にかけて小田原は歴史が重層する場所ということになります。

清閑亭

 黒田長成侯爵の別邸清閑亭に到着しました。
ゴールとしたいですが、清閑亭には小田原城の痕跡が残っているんですよ。

清閑亭土塁と新堀

 それはこの土塁と堀ですね。実は清閑亭は小田原城の土塁の上に建っているのです。とても大きな土塁と深い堀です。北条氏の時代の小田原城の痕跡が街中に残っているだけでも貴重な財産です。
この貴重な財産は大切に保存しなければなりません。立ち入り禁止になっていますのでご注意ください。

清閑亭南庭

 はーい、お疲れさまでした。清閑亭のお庭を眺めながらコーヒー紅茶など如何でしょうか。
以上、天神山のまちあるき史跡めぐりでした。

今回のコース

 今回のコースです。
青線が歩いたコース、赤線が新設の回遊路になります。
約1㎞、15分程度のコースです。